2001/04/04 .

私たちの小さな“市民共同発電所”の持つ意味

私は、これまで自分の分の電気は自分で作ろうとみなさんと一緒に、5つの市民共有の発電所を作ってきました。(さらに二つほど増えました)その中で学んできた事をすこしここに書いておきます。

電気と言うのは、実に特殊な財です。ためる事が出来ないという欠点があります。(ためる事は蓄電池を使えば出来ないわけでは在りませんが、これにはコストが掛かります)

つまり、電気と言うエネルギーの形態に大抵は他のエネルギーから転換する事なのですが、この過程=「生産」と「消費」が常にマッチしなければならないのです。そして、送電線の中にそれが流れ込んでしまえば、原子力で作ろうが、化石燃料で作ろうが、風力で作ろうが、太陽電池で作ろうが、化学電池でつくろうがみんな同じです。

現在、言われているグリーン電力と言うのは何で作ったかを問題としています。つまり、この今使っているエネルギーの大元は何なのかを問うているのですが、それは、単なる消費者から生産を含んだ社会全体に対して責任を持つと言う社会との関係性を問い直す事でもあるのです。

中には、こうした電力だけを分けて考え購入時の選択権を選べる立場を取る方がいますが、それは電気というエネルギーの特性から無理な事だし、むしろ、同じようにそれが使われているなら、その負荷をそれによって利益を得る経済主体がそれに対応した形で応分に負担すべきだと言う原則を確認すべきだと私は考えます。

こうした観点から見ればこのエネルギーは通貨と同じような特性を持っていると思います。但し通貨=お金は何とでも交換できますが、電気は必ず作られたときに消費されねばなりません。蓄蔵することは出来ません。

さて、電気の供給は今まで、地域独占の電力会社が担ってきました。(まるで社会主義的だと言う風に揶揄もされていますが)それは、大元が化石燃料を使い大きな発電所で大量に作って消費者にバラ撒くと言う方式で近代産業特有の有り方です。しかし、これからはごみが出ました。CO2と言うゴミが・・・。(原発による放射性廃棄物も出ています)

ところが、このCO2をゴミとして捨てていた地球環境の容量がこのままでは足りなくなってしまう事が見えてきました。地球は閉じられた系で有るにも関わらず、私たちの文明はそれを無限であるかのごとくに錯覚して大量生産、大量消費、大量廃棄の産業文明構造を作ってしまってきたのです。

この文明のあり方は化石燃料を掘り出したところから始まりました。じゃ〜拙いから止めるかと言って後戻りも出来ないぐらいに私たちはこの文明にどっぷりと組み込まれて生きています。また、そのままここを捨ててどこかに行くかと言ってもそう簡単には行けません。

でも、普通の生きている日本人の感覚では他人事か遠い未来の事であると考えています。また、よしんばこの問題を真剣に考えても自分の力じゃどうしようもないと諦めの心境になってしまうのですね。しかし、私たちはこの地球の上でしか生きられないのにです。

また、こうした生産装置から遠いところに在って大部分の人間はそこから疎外されています。自分で発電設備を持っているなんて人間はそう多くは在りません。それ故に、その社会の権力をもつ側からの恫喝に容易に屈してしまう事にもなるのです。

化石燃料を掘り出して、高度に産業化された社会の住人として私たちは生まれてくる事を逃れ得なかったのです。しかし、あきらめる事は有りません。技術の発展によって別の方法が見えてきています。

たとえば、みんなに平等に降り注ぐお日様の光をそのまま電気に変える太陽光発電がその一つです。これは言ってみれば太陽電池という道具で屋根の上で農業をやっているようなものです。農業はバイオマスを使って太陽からの光のエネルギーを人の利用できるものに固定化することだったからです。似ているでしょ?

ただ、根本的に異なっているのは、農業はバイオマスという他の生物=植物という道具とその設置場所としての農地を使うのですが、太陽光発電はこの道具が工業製品であることです。そして、工業製品は初期は製品価格が高いのが常です。

農業の場合は先行営農者は条件の良い所から始められます。また、農薬を使わないとか有機肥料を使うと言う事で最終製品の差別化が可能ですが、この工業製品で行う農業である発電事業は条件が悪いところから始めねばなりません。

しかし、送電線に逆潮流で流れていると言う事は、その生産物である電気は送電線に繋がっている社会全体で使われていると言う事です。ならばこれは社会全体で支えられるべきものなんじゃないでしょうか。

それは、個人の屋根の上にあってその所有権が個人に有っても、その生産物である電気は社会全体に届いているものであり、その生産装置である太陽光発電設備は社会全体のエネルギー供給装置であるとかんがえるべきだからです。

こうした認識の共有が必要ではないでしょうか?

それがバッテリーの貯められてそこだけで使われているなら、社会全体で評価すると言う事は直ぐには納得できない事ではあるのですが、系統連携で繋がっていると言う事はそういうことなのだと思います。

あの巨大な原子力発電所も系統に繋がっています。火力発電所も、水力発電所も繋がっています。これまでは、そうした発電所のみが社会の為のものだと思われてきました。しかし、環境負荷の無い私たちの発電所も、個人で所有されている先行設置者の高い発電コストの掛かった発電所も送電線に繋がっています。こうした小さな発電所だって社会全体で使われている電気エネルギーの供給設備の一部なのです。

これは言わば、一般市民が直接金を出す公共事業と言って良いでしょう。今まで、国家のやることだとか電力会社のやる事だと、誰もがその責任を人に押し付けてきたエネルギー供給の責任を一人一人が資金を持ち寄って分担している事になるのです。

しばしば、お金がある人が設置すれば良いと言う風なことを言う方が居ますが、それは別のファクターの問題であって使う側の責任の問題ではありません。そう言う考え方が責任の放棄に繋がってしまうのです。気をつけましょう。

企業はこうした不利益を蒙る事は出来ないといいます。本当にそうなんでしょうか?

何故、電力会社は環境負荷の大きな発電所を運用してそれで金儲けするのが当たり前で、環境負荷を与えない発電所を運用する人が経済的な損失を蒙らねばならないのでしょうか。実に不思議です。

こうした不公正と不公平は是正されるべきだと考えます。そうでなければ社会的に有効だと思われるぐらいの有効な需要は出来ません。みんなが使う電気を誰かが経済的な犠牲をもって供給するべきだと言うのは変なんじゃないでしょうか?

今、なすべきことは真の意味の生産、すなわち自然エネルギーの生産のための装置に社会全体の資金を固定化することです。そして、求められているのはその為の公正で公平な制度・枠組みを作ることです。人の善意を当てにしたり偽善者になる事を強制するものであってはなりません。

私たちはこの事を問題としているのです。運動では常に普遍性を持つかどうかが問われているのです。そのことを決して忘れて欲しくはないと思います。
 
 

「太陽光・風力発電トラスト」運営委員・中川修治


 2002/01/03一部改稿